金佩華著『北京と内モンゴル、そして日本(集広舎刊)』-週刊読書人で書評 [ 2014/05/31 ]
実体験に基づく語り
金佩華著
北京と内モンゴル、そして日本
文化大革命を生き抜いた回族少女の青春記
草の根の友好のゆるぎなさを物語る 福岡愛子
本書は、「文化大革命を生きぬいた回族少女」佩蘭の物語である。全359頁のうち、文革中の迫害と「下放」(1969~75年)についての章が7割を占めるが、1人称による文革回想記ではない。「反革命の父」、「不貞の母」という家庭に育った佩蘭の反省が、著者のストーリー・テラーの才により、日本の読者にも共有可能な夢と挫折の「青春記」として、ユーモアさえまじえて描かれている。
但し、「あとがき」によれば「主人公佩蘭は著者自身」であり、本書の魅力はまさに「実体験」に基づく記憶の語りのディテールにある。北京有数の女子中学での教師打倒、「大串連」と呼ばれた交流体験の命がけの旅、日常生活を蝕む相互不信と不安、大自然の中で労働や訓練に励む生き生きとした日々、それでも何ひとつ報われないことを悟る苦悩などが、恐らく当時の日記とその後知り得た事実をもとに綴られている。
文革は一般に、知識人に対する弾圧を出自による身分差別の激しさで知られる。静岡大学教授・楊海英の内モンゴルにおける資料収集が進んで、ようやく対象化され出した。本書はイスラム教徒・回族にとっての文革を理解するうえで、貴重な文献といえよう。
佩蘭は、北京の四号院に住む回族一家の五女として1952年に生まれた。両親の事情や貧困、絶対多数の漢族の中で暮らす回族ならではのハンデなど、文革前から問題は多かった。それだけに、「毛主席のよい子」としての向上心は人一倍強かった。
文革前後の変化を象徴的に示すのが、豚肉をめぐるエピソードである。従来学校などで、宗教上豚肉を忌避する回族の生徒には別な食事が用意され、その子たちの前で漢族が豚肉料理を食べることのないよう配慮されたという。ところが紅衛兵の「四旧打破」運動が始まると、食習慣まで旧習とみなされ、革命性と毛沢東への忠誠を示すには豚肉を食べざるを得なくなる。佩蘭が、中ソ紛争のさなかに内モンゴル生産建設兵団の入ることを切望したのは、革命か反革命かの単純思考から逃れるためでもあった。彼女は極寒・極暑の劣悪な条件下、「砂漠をオアシスに」という新しい夢にかけるが、豚肉のストレスは続いて胃痛に苦しむ。
同年代の革命後継者たちは、農作業と国境警備訓練に明け暮れ、「死んでもいい!」とさけばされながら、生きるためにラクダまで殺して食べた。そんな緊迫した生活が緩むのは、「林彪事件」後の1972年になってからだ。周囲の男女関係が乱れ始める中、読書を通して自立的な思考を身につけた佩蘭は、日本語の独学によって未来を切り開こうとする。
文革に関する回想記も「紀実文学」も、多くは当時の不幸に照らして今の幸せを享受できる人々の記憶の再構築である。それが出来ない人びと、あるいは、それ以前に人間と自然の過酷さによって命を落とした人々の無念を思いやらずにはいられない。そして、人間にせよ国家にせよ、神ならざるものが崇拝の対象にその是非を問うことが禁じられて人々の間に黙従と疑心暗鬼が広がるような事態は、決して他人事とは思えない。
本書は、著者が文革の末に自ら選び習得した巧みな日本語で書かれ、良き伴侶を得たン本で、日本と中国の友人たちの協力によって完成した。日中それぞれが受け止めるべき問題は思いが、本書出版の経緯そのものが、双方で互いに築き上げてきた草の根の友好の揺るぎなさを物語るようだ。(ふくおか・あいこ氏=東京大学大学院人文社会系研究科研究員・社会学専攻)★ジン・ペイホア/さん・はいか氏は早稲田大学、慶應義塾大学、法政大学ほか講師。79年北京第二外国語学院分院(現北京連合大学旅遊学院)に入学。卒業後、同大学教師に、90年に同大学副教授となる。著者に「北京案内」「観光サービス導論」「桜と牡丹」など。
-週刊読書人 2014年5月16日-
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