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書名 : 北京再造―古都の命運と建築家梁思成
編著者 : 王軍著多田麻美訳
出版社 : 集広舎
定価 : 4,600 円
出版年 : 2008/11 月

戊戌の変の指導者のひとり梁啓超の長男として日本で生まれた梁思成は、1950年代、元・明・清と引き継がれてきた古都北京を保存する都市計画プランを提出した。
しかしそのプランは採用されず、再び脚光を浴びることになったのは、北京五輪を控えて、北京の再開発をめぐる論争が繰り広げられた時期である。
戦時下、米軍に対し京都と奈良を保護するように提案したという梁思成の逸話にも触れながら、著者は、現代における文化財保護、都市計画のありようを問いかける。


第1章 古都をはかりにかける
第2章 都市の造営をめぐる論議
第3章 梁陳プラン
第4章 紛糾する論争
第5章 「大屋根」論争
第6章 名匠の惑い
第7章 読書人の気概
第8章 青写真のお目見え
第9章 新と旧の決裂
第10章 余韻去り難し


著者紹介
王軍[オウグン]
中国西南の貴州高原で生まれ育つ。1987年、北京・中国人民大学ジャーナリズム学科入学。同大卒業後、1991年より国営通信社・新華社勤務。2003年10月、『城記』を出版。2008年6月、『採訪本上的城市(取材ノート上の都市)』を出版。2007年から2008年にかけて、歴史都市の保護と都市計画の問題を巡り、アメリカ都市計画協会、ナショナル・ビルディング・ミュージアム、コーネル大学、ワシントン大学などで講演を行う

多田麻美[タダアサミ]
静岡県出身。京都大学文学部中国文学学科および同大学院で中国文学を専攻。現在はフリーランスで北京の文化をめぐる記事を執筆。北京の文化や中国文学関連の書籍の翻訳も手がける。とりわけ、北京の胡同文化に強い関心。北京在住
|北京再造-古都の命運と建築家梁思成



今の北京を過去に探る
訳者後記

北京という都市の容貌は現在、たいへんな速度で変化している。熟知していた場所でも、数カ月訪れずにいただけで、道に迷ってしまった、などという話は、珍しくない。下手をすると、道そのものまで消失している。

そんな都市の変化を追わねばならない北京の記者は、重く繁多な任務を担っている。いたるところに急速な変化が生む矛盾があり、理想と現実の間のギャップがあり、見落とされた悲劇がある。そんな北京の今に立脚しつつ、北京が現在の状態に至るまでの歴史的過程が、強靭なジャーナリスト精神でもって追究されているのが、王軍氏のこの著作だ。

王軍氏が記者としての道を歩き始めた90年代前半は、不動産が対外開放され、北京の旧城内に香港系資本のビルが次々と建設され始めた時代だった。過去数十年にわたって蓄積されていた都市の矛盾が爆発し、梁陳プランの是非や北京の城壁の取り壊しをめぐり、専門家の間で改めて論争が繰り広げられた。だが王軍氏が疑問を感じたのは、それらの論争が、歴史的プロセスの把握に欠けたまま、抽象的な次元でのみ行われていたことだった。

そんななか、ひたすら「事実を明らかにしたい」との一念で生まれたのが本書だ。その大きな魅力は、強い批判精神をのぞかせつつも、過去に存在した北京の都市計画をめぐるさまざまな主張が、梁陳プランに反対するものも含め、比較的客観的に、読者に判断を委ねる形で記されている点である。王軍さんの「読者を尊重する」姿勢、そして「事実は目的であり、手段ではない。いかなるイデオロギーのもとで仕事をする場合でも、記者はつねに事実に準拠すべき」という信条が、しっかり基底に貫かれている。

作者自身が「長編報道」と称するこの書は、王軍氏の10年間にわたる調査、取材をもとに、半年間をかけてまとめられた。執筆中はまるで「魂が歌っているように自由」だった、と王軍氏は語る。発表は難しいだろうが、生きているうちに発表できなければ子供に託せばよい、との覚悟だった。

しかし予想に反し、本書は中国で順調に出版された。しかも発売後、大反響を呼び、一般の読者だけでなく、中国政府筋からも肯定的な評価を獲得。初版の出版から5年に満たない現在、すでに第7刷が店頭に並んでいる。今年6月には、北京の都市問題をめぐる調査をまとめた力作、『採訪本上的城市(取材ノートの上の都市)』も刊行された。

最後に、本書を翻訳するにあたり、筆者の数多くの疑問点にご回答いただいた村松伸先生、張全さん、マリーナ・シャピロヴァさんに心から感謝の言葉を捧げたい。また、筆者の力不足ゆえに、訳語等をめぐっていくつもの疑問点を残すことになってしまった。ここで心よりおわびし、誠に勝手ながら、読者の方々のご批判、ご意見を請う次第である。

2008年6月 多田麻美

関連記事/訳者コラム:北京の胡同から/第3回
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【北京再造・読者からの反響】

☆「これはすごい本だ。中国の都市史と世界のそれとが建築もふくめ同時代的にトランスしていて、また中国共産党史とも並走していて、そこで翻弄される建築家や市井の北京市民の哀感もあり、ノンフィクション物語としては秀逸。この王軍さんのまなざし、取材スパンの広さはすばらしい。
いままで北京を訪ねて疑問に感じていた街路や近代建築の謎も氷解していき知的旅行案内としても面白い。
 訳が良かった。つらつらと読み易く、内容が内容なので難解、かつ退屈にならないのも多田さんの力量だと痛感しました。著者の思い入れを受けとめて、多田さんのメンタリティーで発酵させられている」
            
 ── 写真家 中川道夫

☆胡同の千変万化 
ちょっと目を離すと、その町並みが変わっているのが北京の横町、胡同だ。
北京五輪が終わった今も、それは変わらない。
そんな胡同の古びた伝統住宅、四合院にも5年間住みながら、胡同観察を続けている 日本人フリーライター、多田麻美さん(35)が日本語に訳した「北京再造」が出版された。
原書は国営通信新華社の王軍記者(39)が書き反響を呼んだ「城記」だ。
城記には都市計画学者の故梁思成氏が古都北京の遺産を守るため旧城保存を提唱したことや「失われた文化財」のエピソードが描かれている。かつての北京は城壁で囲まれた城郭都市だった。
都市計画学者が古きよき北京の保存を訴えたのは、約60年前のことだ。
時は流れたが、北京五輪をきっかけに胡同の再開発が海外からも注目された。「胡同の歴史を追うと、再開発による取り壊しに行き着きます。なぜ取り壊されるのか、そこに関心があります」と多田さんは言う。
   
毎日新聞 2008年11月30日(日)国際面「街角」北京 (堀信一郎)より


☆保存と開発の相克に学ぶ教訓の書
小田富士雄(福岡大学名誉教授・考古学 )      

古い歴史を背負った建築やその集合景観が新しい時代の波に呑みこまれて姿を消してゆく世相はわが国でも例外ではない。本書は1950年代に古都北京の歴史的景観保存する都市計画プランを提出した一建築家梁思成がいたこと、またこの人が日本で生まれ育った人で、奈良・京都を太平洋戦争時の空襲から守るためにもかかわったらしいことなど、わが国にもかかわる人物であることを本書によって知らされた。
 現在わが国では飛鳥保存法や古都保存法など、古都の景観保存が成立し、さらには世界遺産などに登録されるまでに至った。梁氏らの活動は、このような古都保存思想の流れのなかでも先覚者的位置を占めるものであったといえよう。現在のわが国では20世紀までに、都市開発ブームのなか、第一次から第四次に至る全国総合開発計画(一全総~四全総)がすすめられてきた。この計画の推移を通じて文化財の保存・整備で開発側と保存側当局間の事前協議がなされ、歴史的遺産をとり入れた新しい都市計画が策定される段階にまで進展してきた。戦後の文化財保護法公布以来、半世紀の歩みの成果であった。このようなわが国の状況と照らしながら古都北京における梁氏らの保存への活動を読みすすめてゆきとき、わが国にもおとらぬ苦労のほどが察せられる。そしてこれらの努力に感銘したジャーナリズム記者王軍氏の十年にも及ぶ取材成果が出版されて中国内にも大反響を呼び、政府筋から好い評価を得ることとなったのは慶賀にたえない。まさに人を得た、時を得た公刊事業であった。本書は単なる他山の石でなく、わが国の古都保存施策のうえでも参考すべきところ多い教訓の書でもある。文化財保護にかかわる諸氏に必読をすすめたい一書である。
2008年12月 


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陳占祥 簡略年譜

1916年6月13日 上海のある商人の家庭に生まれる。原籍は浙江省奉化県。
1929年~1934年 上海の澄衷中学で学ぶ。
1935年~1937年 上海レスター工専の建築構造科で学ぶ。
1938年8月 上海からイギリスのリヴァプール大学建築学院に留学。授業開始から間もなく、リヴァプール近郊の歴史都市、チェスターの民間団体の要請を受け、生まれて初めて英語による公開講演を行う。テーマは「中国の抗戦」。
1938年~1946年 イギリスでの留学中、中国国民党に入党。中国の抗戦などの問題をめぐり、500回以上の講演を行う。
1942年 リヴァプール大学建築学院の学生会会長に選ばれる。
1943年 建築専門の5年間の学業を終え、リヴァプール大学都市デザイン学部の修士課程で学ぶ。
1944年 リヴァプール大学都市デザイン学部にて修士の学位を取得。リヴァプールの「チャイナ・タウン」の設計プランを提出。ロンドン大学大学学院の博士課程に入り、サー・アーバー・クロンビーに師事しつつ都市計画立法について研究する。
1945年 世界民主青年代表大会理事会の副主席に選ばれる。
1946年 北平の都市計画を作成して欲しいという北平市建設局局長、譚炳訓の要請を受け、帰国の途につくも、国共内戦のため、南京に留まる。国民党政府の内務部より営造司簡派正工程師に任命。中央大学建築学科の教授を兼任し、都市計画学の講義を担当する。
1947年1月 婁道信と共に「首都政治区建設計画大綱草案」を完成。上海都市計画委員会で全体図班の班長代理を務め、上海の都市計画を作成。浦東新区の開発を提案。上海セント・ヨハネ大学の教授を兼任。建築家の陸謙受、王大上、、鄭観萱、黄作燊とともに、「五聯建築事務所」を設立。上海漁業管理処の漁業用の埠頭および冷凍倉庫を設計する。
1949年10月 梁思成の要請に応じて北京へ。北京市都市計画委員会の企画処処長に任命される。清華大学建築学科の教授を兼任、都市計画学の講義を担当する。
1950年2月 梁思成と共に「中央人民政府の行政中心区の位置に関する提案」(通称「梁陳プラン」)を完成させ、古都北京を全体として保護し、旧城の外に中央行政区を建設することを提案する。
1951年12月 中国国民党革命委員会に加入する。
1954年 華攬洪との合作で、北京の月壇南街を設計。
1955年 北京市城市規画管理局設計院へ転任、副総建築師となる。
1957年 「北京の全体計画と都市建設」を著し、ソ連の専門家の主導によって作成された、旧城を改造する「北京の都市建設をめぐる全体計画の初歩的プラン」を批判。「建築家か、それともトレーシング・マシンか」を著し、創造性ある頭脳労働としての建築デザインの特徴を尊重するよう呼びかける。「右派」に分類され 、労働改造のため、北京郊外の昌平に下放される。
1962年 設計院情報所で翻訳者兼通訳を務める。
1966年 「文化大革命」で批判を浴び、「牛小屋」に軟禁される。
1979年 国家都市建設総局の都市規画研究所に転任、総規画師を務める。『城市規画』誌英語版の編集長を兼任。この後、深曙V経済特別区、上海、杭州、蘭州、海口、四川北部などの都市や地区の都市計画プランの研究及び審議に参加。
1988年 招聘に応じ、アメリカで学術講演を行う。カリフォルニア大学バークレー校の評議員(リージェンツ)教授(UC Berkeley Regents' Professor)、カーネル大学とシラキュース大学の訪問教授を歴任。また、ミゾーリ州のカンザス大学からも、「エドガー・スノー教授」(University of Missouri-Kansas City Edgar Snow Professor)という称号が授与される。
2001年3月22日 病のため北京にて逝去。


梁思成 簡略年譜

1901年4月20日 東京で生まれる。
1906年から1912年にかけて、華僑の経営する横浜の大同学校幼稚園、および神戸の同文学校初級小学校に在籍。
1912年10月 父の梁啓超、母の李?_@g$H6&$K!"F|K$h$j5"9q!#
1912年~1915年 北京の匯文学校と崇徳学校で学ぶ。
1915年~1923年 北京の清華学校で学ぶ。
1919年5月4日、清華学校の学生による「愛国十人団」及び「義勇軍」の中堅として、五四運動に参加、デモ行進をする。同級生からは、「政治的な思考をする芸術家」と呼ばれる。
1920年 父の命で、イギリスのSF作家・歴史学者H.G.ウェルズの『世界史概論』(H.G.Wells, A Short History of the World)の翻訳に関わる。
1924年4月 インドの詩人タゴールが中国で学術講演を行うさい、その接待を行う。6月に、留学のため、アメリカへ旅立つ。9月、ペンシルヴァニア大学の建築学科に入る。
1925年 父梁啓超から宋の李誡の『営造法式』を受け取る。中国の伝統建築の歴史を学びたいという強い願望が芽生える。
1927年2月 ペンシルヴァニア大学にて建築学学士の学位を取得。7月にはペンシルヴァニア大学建築学修士の学位を取得。9月にはハーヴァード大学の博士コースに転入。
1928年3月 林徽因とカナダのオタワで結婚。結婚後、ヨーロッパ旅行に出かける。イギリス、スウェーデン、ノルウェー、ドイツ、スイス、イタリア、スペイン、フランスの伝統建築や新しい現代建築を考察。ソ連を経由して帰国。9月、中国にて東北大学の建築学科を創設し、学科主任となる。
1930年 張鋭と共に、天津市政府の行う「天津特別市の公共建築建設プラン」のデザイン・コンペに参加し、1位に選ばれる。『中国彫塑史』の授業の要綱を仕上げ、東北大学で始めて講義を行う。
1931年9月 北京で中国営造学社に参加し、法式部の主任を務める。
1932年3月 「我々の知る唐代建築と宮殿(原題:我們所知道的唐代建築与宮殿)」を発表。6月には初めての古建築の調査報告である「薊県独楽寺観音閣山門考」及び「薊県観音寺白塔記」を発表。これは中国で初めて、現代科学の方法で古建築を調査・測量した調査報告書となる。
1933年9月 山西省応県の佛宮寺で遼代の木塔を発見、測量。世界に現存する最も高い木造建築とされる。11月、河北省趙県にて隋代の趙州橋を発見、測量。世界に現存する最古の石造アーチ橋とされる。
1934年1月 『清式営造則例』を出版する。これは現代の科学技術の観点と手法で、中国の伝統建築の構造と規則について総括した中国で初めての著作。この年、林徽因との合作で北京大学の地質館を設計する。
1935年2月 山東省曲阜の孔廟建築を調査・測量。7月、孔廟の修築計画を作成。
1937年6月 山西省五台県にて唐代の木造建築である佛光寺を発見。盧溝橋事件の後、一家で北京を離れ、中国の南方へ引っ越す。
1943年 四川の李庄で『中国建築史』の原稿を完成させる。
1945年5月 重慶で「戦区文物保存委員会文物目録」を編纂。アメリカ軍が日本に反撃を加える際、京都と奈良を保護するよう提案する。
1946年11月から1947年7月にかけて、アメリカで視察調査と学術講演を行う。
1947年2月 国連ビルの設計委員会の顧問となる。4月、プリンストン大学から名誉文学博士の学位を授与される。
1948年3月 中央研究院の院士(アカデミー会員)に選ばれる。12月、中国共産党の解放軍の要請で、北平の伝統建築の保護をめぐる提案書を提出する。
1949年3月 「全国重要建築文物簡目」を編纂。
1950年1月 北京市都市計画委員会副主任委員に任命される。2月、陳占祥と共に「中央人民政府の行政中心区の位置に関する提案」(通称「梁陳プラン」)を提出し、古都北京を全体として保護し、城壁の外に中央行政区を建設することを提案する。5月、「北京の城壁の保存問題に関する討論」を発表、北京の城壁の保護を呼びかける。6月、中華人民共和国の国章のデザインを完成させる。
1951年4月 「北京――都市計画の比類なき傑作」を発表。
1953年10月 中国建設工程学会の第一期理事会の副理事長に選ばれる。
1954年6月 新中国の建築学科における最初の学術的刊行物である『建築学報』を創刊し、編集長を務める。
1955年 建築設計に民族的形式を用いることを主張したため、中国共産党中央政治局の批判に遭う。同年4月1日、林徽因逝去。
1959年1月 中国共産党に入党。
1962年6月 林洙と結婚。
1963年6月 江蘇省揚州にある鑑真紀念堂の建設予定地へ視察に赴き、鑑真紀念堂を設計。
1964年6月 『人民中国』に幼時の東京での生活を回想した文章を発表。
1966年3月 『営造法式』の注釈を完成。8月、「文化大革命」のため、「ブルジョワ反動的学術『権威』であり、党内に紛れ込んだ悪質分子の土木建築学科主任梁××」と書かれた黒い看板を首にかけて引き回され、「罪の告白」を強いられる。
1972年1月9日 病のため、北京病院にて逝去。






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