書名 : 原文で楽しむ明清文人の小品世界
編著者 : 大木康著
出版社 : 集広舎
定価 : 3,400 円
出版年 : 2006/09 月
A5判上製308ページ
明清両代の江南地方においては、唐寅、陳継儒、馮夢龍をはじめとするユニークな文人たちが多数登場し、活躍した。本書は、明末清初期の文学を中心に江南文化史研究を専門とする著者が、日頃の読書の過程で拾い集めた小品散文を中心に、解読を試みたものである。白文-訳文-訓読、そして語釈と解説、行き届いた丁寧な構成により、彼らの奥深い美学の世界を味わうことができる。
第一章 試験問題で遊ぶ
ーー唐寅「我是箇多愁多病、怎当他傾国傾城貌」
第二章 雅と俗のはざまで
ーー陳継儒「文娯序」
第三章 ある愛の歌
ーー馮夢龍「情仙曲」
第四章 美人を思う
ーー衛泳「悦容編」
第五章 思い出の中の才女
ーー陳維崧「呉姫扣扣小伝」
第六章 心優しき秀才の手紙
ーー呉兆騫「上父母書」
第七章 街のオアシスで
ーー宋犖「重修滄浪亭記」
第八章 受験生の旅
ーー「公車見聞録」
はじめに
『原文で楽しむ 中国明清文人の世界』と銘打って八篇の文章を集めた。
わたしは中国文学を専攻し、明清時代の文学作品を中心に読書を続けている。なかでも関心を抱いているのは、十七世紀、明末清初の時代、長江下流域、いわゆる江南地域に活躍した文人たちとその作品である。
明末の江南では、折からの経済的活況を背景に、さまざまな分野において爛熟した文化が花開いた。この時代に、今日に至るまで読み継がれている白話小説の傑作が多数生み出された。長編では『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』あるいは『金瓶梅』、また短編では「三言二拍」などの作品である。
官僚体制の中での地位から見れば、取るに足りないものであったにしても、才能学力の点で明らかに当代一流といえる人々が、それまでは蔑視の対象に過ぎなかった戯曲や小説など通俗的な文学ジャンルに本気で手を染めるようになった。これが、明末の時代における最も特徴的な文学現象の一つであった。
今日の目から明清の文学作品を眺めた時、そこに燦然と輝くのは、たしかに右に挙げたような白話小説であり、また『牡丹亭還魂記』や『桃花扇』『長生殿』などの戯曲であろう。だが、当時の文人たちにすれば、最もその心血を注いだ文学ジャンルは、実は伝統的な詩と散文なのであった。
当時の文人たちが書きつづった詩と散文とは、折からの出版文化の興隆を背景に、書物の出版量全体が爆発的に増加したこともあって、今でもおびただしい数の詩文集として残されている。
本書は、このような詩文集その他当時の文人たちの著作をめくっていった折々に(もちろんわたしの目にした分量は氷山の一角もいいところであるが)、心の琴線に触れた文章を拾い集め、いささか気ままな解説を施したものである。
ここに収めた文章は、これまで刊行された文学史や散文集の類に収録されているもの、いいかえれば文学史の脊梁山脈を形作るような作品は、むしろ少ないといってよい。明清の時代にこのような作品を書いた人があり、またそれを読み、後世にまで伝えようとする努力があったことはたしかな事実であるが、これら文章の大海の中から何を抽き出してくるかは、ひとえにわたしの個人的な趣味によったとでもいうよりほかはない。
とはいっても、これらの文章に共通した指向がまったくないかといえば、そんなことはない。ここにあるのは、いずれも明清の時代を生きた文人たちの「生活と意見」にほかならない。
「文人」とは何か。その定義はなかなか難しい。村上哲見教授は「文人・士大夫・読書人」(同教授『中国文人論』汲古書院 一九九四)において、文人とは、古典の素養と作詩文能力をそなえた「読書人」の基礎の上に、さらに風流韻事すなわち書画音楽などの藝術活動にすぐれた人々であると定義する(ちなみに、「士大夫」は「読書人」のうち治国平天下的使命感の側面についていうとされる)。なるがゆえに、宋の蘇軾(東坡)のように、高級官僚でありつつ藝術活動に秀でた「官僚文人」も矛盾なく存在できると指摘される。
わたしはこのすぐれた文人の定義に続けて、風流韻事をさらに広く解釈し、一種「生活の藝術」(これは林語堂の言葉)を追究したのが文人ではないかと思う。この世に生をうけ、日々の生活そのものを楽しむこと。その楽しみの中に、詩もあり、文もあり、書画もあり、音楽もあり、庭園もあり、はたまた時には美女もあり、美少年もあり、健康法もある。そしてこういう風流韻事を専門の職業として生きた人々もあれば、あるいは忙しい官僚の生活のさなかにあっても、優雅な文事を忘れない人もあった。ここでは、こうした文人たちのさまざまな側面を見てみたいと思った次第である。
『原文で読む 中国明清文人の世界』ーーこの書名には、二つの思いを託したつもりである。まずは「原文で読む」という部分で、小著が明清文人たちが書いた散文を解読してゆく作業の産物であることを示した。文人たちの世界を紹介するにあたって、あるいは評伝のような形で彼らの生活と意見とを描いてゆくこともできたかもしれない。だが、ここではそういった形は取らず、とにもかくにも彼らが力を込めて書いた文章をていねいに読んでみることによって、彼らの姿を描き出そうと思った次第である。文学を専門にするものにとって、ここが出発点であり帰着点であると思うからである。
次に「世界」。この曖昧模糊とした言葉は、いわば形而上的な文学、美学、思想といった側面から日々の生活の形而下的な側面に至るまで、その全体を示したいとの意図から生まれた。もちろんこの両者は、相互にからみあっているのであるが、清初の政治的困難の時代、僻遠の地に流された悲劇の文人、またその彼を救おうとした友人たちの努力を取り上げ、また当時の人々の旅の苦労の様を加えたのは、それもまた文人たちの「生活と意見」の実状をのぞいてみたかったからにほかならない。
明清文人たちの世界をいっしょにお楽しみいただければ、著者としてこれにまさる歓びはない。
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大木康著『原文で楽しむ明清文人の小品世界』を読む
──二十年ぶりの授業
(名古屋外国語大学准教授)船越達志
本書は、読者が原文を丁寧に読むことを通して、明清時代の文人の生き方と美学の世界に触れ味わうことを旨として書かれた書である。原文が掲げられる際には、原文、訳文、訓読(散曲はなし)、語釈、という構成がとられている。その前後に、その作品に関する詳しい解説が付されている。取り上げられる文章は、八股文、小品文集の序文、散曲、美人論、若い側室の伝記、手紙、庭園修復の記録、旅の心得等様々である。これら原文が伝える文人達の生の声には、胸を打たれるものがある。愛姫に先立たれた文人の悲しみ、獄中にありながら父母の健康を気遣う文人の孝行の想い、流刑になっている友人を案じる文人間の友情など、偽りの無いその真心は感動的である。こういった文人達の真情に触れることができるのは、原文を介してのみ味わえるものである。本書ならではと言えるであろう。
原文を味読し、文人の世界に触れることは、それ自体大変興味深いことであるが、本書では、ただ単に原文が提示され、それで終わるわけではない。その原文に対する解説中で、原文にまつわる様々な情報が提示されるのである。これが大変興味深い。例えば、第一章で取り上げられる八股文「唐寅の西廂八股」は、各テキストの状況等から、元来唐寅の作ではなく、後世作者に仮託されたことが示される。また第五章で取り上げられる「呉姫扣扣小伝」は、冒襄の愛姫、呉扣扣が死去した際に、陳維崧が記した彼女の伝記であるが、これにはその十年前に死去した冒襄の愛妾董小宛の影が漂っている。第七章で取り上げられるのは蘇州の名園滄浪亭修復について記した宋犖「重修滄浪亭記」であるが、著者は実際に現地を訪れ、原文と比較しながら現在の様子を紹介する。こういった一歩踏み込んだ解説が、興味深く語られていく。さながら各章が、一時間、一時間の講義のように展開し、読者をひきつける。
また筆者は、『紅楼夢』を専門に研究しているが、そういった者にも本書は多くの示唆を与えてくれる。『紅楼夢』は様々なテーマを持つ小説であるが、恋愛小説としての側面に注目した際、『西廂記』は重要な関わりを持っている。『紅楼夢』第23回には、主人公賈宝玉とヒロイン林黛玉がともに『西廂記』に心酔する場面が描かれている。その際、賈宝玉は林黛玉に、自らを『西廂記』中の恋人に見立てる文句を投げかける。面と向かって恋愛感情を吐露することのない『紅楼夢』においては、極めて重要な場面である。この賈宝玉が林黛玉に投げかける言葉の基づく台詞、「我是箇多愁多病身、怎当他傾国傾城貌」をもとに作られた八股文が、本書第一章で取り上げられている。本書では、『紅楼夢』中に出てくる『西廂記』が金聖歎本であることを指摘した上で、「曹雪芹は、あるいは金聖歎本『西廂記』に付された八股文の題目を通して、この一句を心に留めたのかもしれない」とする(52頁)。本書で取り上げられる八股文は、『西廂記』と『紅楼夢』を結ぶ極めて重要な作品であったというのだ。また第四章で取り上げられる美人論、衛泳『悦容編』の序には、情ある女子が埋没してしまうことを恐れ、筆を執ったことが記されているが、すぐれた女性の名が伝わらないことを心配し、筆を執るというのは、冒襄『影梅庵憶語』や『紅楼夢』にも見られる一つのパターンであることが指摘されている(141頁)。これは「甲戌本」と呼ばれるテキストに付された凡例「紅楼夢旨義」に記された『紅楼夢』の執筆動機であるが、一つのパターンとする指摘は興味深い。また本書には、董小宛、納蘭成徳など、紅学上、話題となった人物達も顔を出す。
以上は、筆者の関心から述べた一例にすぎないが、読者それぞれの関心に本書は多くの示唆を与えてくれると思われる。作品、作者、時代などの解説を通して話題は縦横無尽に駆け巡るからである。『西廂記』、『紅楼夢』、陶淵明、「三言」、『子不語』、周作人、『情史類略』、李漁、『浮生六記』等々、文学史でもおなじみの名称にも説き及ぶし、もちろん作品の背後にある当時の社会(例えば科挙)も、実感として浮かび上がってくる。まるで講読の授業において、原文解釈を通して先生が多大な薀蓄を語るのを受講しているかのようである。このように教室における講読の授業を彷彿とするのは、本書の大きな特徴である。私事にわたるが、本書の著者・大木康先生は、筆者の学生時代の恩師である。当時受講したのは「唐宋の古文」と題された科目で、韓愈の古文の講読であった。授業は、演習形式であったが、先生の作品解説は縦横無尽に広がり、白話小説や当時の新説などにも及んだ。まさに本書の展開はあの時の授業を彷彿とする。その次年度には、明清小説の講読と文学史の概説が予定されていたが、先生の転勤により、それはかなわなかった。今、本書を読み終え、二十年を隔てて、その幻の授業出席がかなったかのような感を受けた。
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